あの人のミスだと思っていた。

最初は、たぶん本当にそう見えたと思います。
納品前の確認漏れ。
お客様への連絡の遅れ。
前にも伝えたはずの手順ミス。

管理職がため息をついて、
「また同じことが起きました」
と報告に来る。

社長も、内心では思うわけです。

何回言えば分かるんだろう。
もう少し責任感を持ってほしい。
確認するだけなのに、なぜできないんだろう。

こういう時、人に目が向くのは自然です。
誰がやったのか。
誰の確認が漏れたのか。
誰が止められなかったのか。

中小企業は人数が少ないから、なおさらです。
大きな組織のように問題がぼやけません。
顔が見える。名前が出る。
だから、問題がその人に見えてしまう。

でも、少し時間を置いて眺めると、別の景色が出てくることがあります。

その人だけじゃない。
先月も、別の人が似たようなところで止まっていた。
新人も同じ場所で迷っていた。
忙しい週になると、必ず確認が抜ける。
急ぎの案件になると、決まって報告が後ろにずれる。

そうなると、話は変わります。

これは、本当に「あの人のミス」だけなのか。

もちろん、本人の責任が消えるわけではありません。
仕事を引き受けた以上、確認する責任はある。
報告する責任もある。
雑なままでいいはずがない。

ただ、同じ場所で何度も人がつまずくなら、そこには何かがあります。

道が暗いのかもしれない。
標識がないのかもしれない。
足元に段差があるのかもしれない。
みんなが急いで通る場所なのに、誰も危ないと認めていないのかもしれない。

会社の問題も、よく似ています。

確認漏れが起きる。
では、確認項目は誰が見ても分かる形になっているのか。

報告が遅れる。
では、どの時点で報告すべきか決まっているのか。

判断が止まる。
では、その人はどこまで自分で決めていいのか知っているのか。

ミスが起きた時に、本人だけを見てしまうと、こういう問いが消えます。

「あの人が気をつければいい」
それで終わる。

その場は早いです。
注意もできる。
本人も謝る。
周りも一応納得する。

でも、会社はあまり変わっていません。

そしてしばらくすると、また似たことが起きる。
今度は別の人で。
少し違う場面で。
同じような空気で。

これが一番もったいないんです。

人を責めることが厳しさだと思われることがあります。
でも、本当に厳しい会社は、そこで終わりません。

「次から気をつけます」だけでは終わらせない。
「何を変えたら、次に起きにくくなるか」まで見る。
耳の痛い話ですが、そこには管理する側の甘さも出ます。

指示が曖昧だったのかもしれない。
役割の境目がぼやけていたのかもしれない。
忙しい人にだけ負担が寄っていたのかもしれない。
報告しづらい空気を、上が作っていたのかもしれない。

ここまで見るのは、正直しんどいです。

問題が「相手のミス」ではなく、「自分たちの作ってきた流れ」に見えてくるからです。
責める相手が外にいるうちは楽です。
でも、流れを見ると、自分もその中に入ってしまう。

社長も、管理職も、幹部も。
誰か一人だけを責めて終われなくなる。

でも、会社が変わるのはそこからです。

現場でミスが出た時に、すぐ犯人探しが始まる会社では、人は隠すようになります。
怒られないようにする。
早めに相談しなくなる。
問題が小さいうちに出てこなくなる。

逆に、問題の奥まで見にいく会社では、報告が少し早くなります。

「これ、また同じところで詰まりそうです」
「この確認、誰が見るのか曖昧です」
「ここ、前も止まったので先に決めたいです」

こういう声が出るようになる。

それは、甘い会社だからではありません。
問題を人で終わらせない会社だからです。

人に向き合うことは必要です。
でも、人だけを見ていると会社は育ちません。

ミスをした人に、ちゃんと向き合う。
同時に、そのミスが起きる流れにも向き合う。

この両方ができる会社は、少しずつ強くなります。

たぶん、会社を強くする人は、怒らない人ではありません。
優しい人でもありません。
問題を浅いところで終わらせない人です。

「あの人が悪い」で止まらずに、
「なぜ、ここで人がつまずくのか」まで見にいく人。

そこまで見られる人が一人いるだけで、
会社の失敗はただの失敗で終わらなくなります。
次の誰かを守る材料になります。

同じミスが繰り返される時、会社は何かを知らせています。
人を責める前に、その声を一度だけ聞けるかどうか。
会社の強さは、案外そういうところから変わっていきます。

世の中の非常識は、華僑の常識。
華僑Jでした。