平等に見てるつもりなんですよね。
上司は。

同じように声をかける。
同じようにチャンスを渡す。
同じ基準で見る。
えこひいきはしない。
それが正しいと思っている。
たしかに、きれいです。
上に立つ人として、まともにも見える。

ただ、現場ってそんなにきれいじゃないんです。

同じように扱う。
それで保たれる公平もある。
でも、それをやりすぎると、今度は違う歪みが出ます。
ちゃんと背負っている人と、そうでもない人が、同じ重さで扱われる。
そこで、空気が壊れるんですよね。

いちばん先にしんどくなるのは、頑張っている側です。

あの人はいつも遅い。
あの人は詰めが甘い。
あの人は言われたことしかしない。
みんな、見てるんです。
見てるけど、上司は同じように接する。
同じように評価する。
同じようにチャンスを与える。
そのたびに、ちゃんとやっている側の中に何かが溜まっていく。
なんで同じなんだろう、が溜まっていく。

これ、かなり効きます。

頑張っている人って、評価されたいだけじゃないんですよね。
ちゃんと見てほしいんです。
自分が背負っているものを。
自分が飲み込んでいるものを。
自分が気づいて、拾って、整えているものを。
そこが全部見えないまま、「みんな同じように大事です」
でまとめられると、急に冷めます。
静かに。
ああ、この職場ってそこ見ないんだ、となる。

営業でもあります。
一人は数字を作っている。
数字だけじゃない。
案件の尻ぬぐいもしてる。
新人のフォローもしてる。
空気が悪くならないように、言葉も選んでる。

でも上司は、数字が足りない人にも同じ温度で接する。
「それぞれ良さがあるから」
「誰にでも得意不得意があるから」
たしかにそうです。
でも、現場で聞いてる側からすると、かなりきつい。
それで同じなら、誰が背負うんだってなるからです。

平等って、便利な言葉なんですよね。
きれいだから。
揉めにくいから。
上司も悪者になりにくいから。
でも、平等を盾にして差を見ない管理職の下では、
頑張る人から先に疲れていきます。

同じように扱うことが優しさに見える時があります。
でも、本当に必要なのは同じように扱うことじゃない。
その人が何を背負っていて、何をサボっていて、
何をちゃんと持っているのかを見ることです。
ここを飛ばした平等って、ただの雑さなんですよね。

経営でもそうです。
評価制度をきれいに揃える。
ルールも整える。
一見、公平です。
ただ、その制度の運用が「みんな一律」になった瞬間に、
現場の温度と離れはじめる。
本当は差がある。
責任の重さも、影響の大きさも、空気を支えている度合いも違う。
そこを見ずに一律で切ると、
会社ってだんだん本気の人から元気がなくなります。
これ、怖いです。
できない人が辞めるんじゃない。
できる人が黙る。
そっちのほうが、ずっと怖い。

上司が見るべきなのは、表面の数字だけでもないし、態度だけでもない。
その人がチームに対して何を持っているかです。
どこまで拾っているか。
どこまで守っているか。
逆に、どこで甘えているか。
どこで逃げているか。
そこを見ないと、本当の意味での公平なんて作れません。

平等に扱うのって、楽なんですよね。
説明しやすいから。
全員に同じことを言えば済むから。
でも、マネジメントって本来、そんなに楽じゃない。
人によって持たせるものも、返す言葉も、踏み込む深さも変わる。
そこをちゃんと変えるから、人は納得する。
そこを面倒くさがると、「平等」という言葉だけが残る。

もちろん、えこひいきしろって話じゃないです。
好き嫌いで扱いを変えるのは論外です。
ただ、違いを見ないことまで公平と呼びはじめたら、現場は腐ります。
ちゃんと持っている人が報われない職場は、長く持たない。

強い上司って、全員を同じように扱う人じゃないんですよね。
全員をちゃんと見る人です。
厳しくする人もいる。
待つ人もいる。
任せる人もいる。
細かく見る人もいる。
その違いに筋がある。
基準がある。
だから納得が残る。

部下を平等に扱う。
聞こえはいいです。
でも、その平等、ほんとうに公平ですか。
それとも、見ないで済ませるための、
きれいな言い訳になっていませんか。

世の中の非常識は、華僑の常識。
華僑Jでした。